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本記事は、飯田橋法律事務所様より削除依頼を受けましたため、トラブル防止のため削除とさせて頂きました。
2022/09/27(火) 03:11 No.8 編集 削除
宗教とマルクスと日本共産党の優しさ メール 返信
マルクスは、25歳の時の論文「ヘーゲル法哲学批判・序説」のなかで、「宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸にたいする抗議である。宗教は、なやめるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆のアヘンである」と書いたことがあります。
 この文脈からも明らかなように、アヘンを単純に毒薬という意味で使っているのではありません。アヘンは乱用すれば有害ですが、アヘンの成分から作られるモルヒネは、鎮痛剤として使われています。
 アヘンという言葉には、宗教に対するマルクスの批判もこめられています。宗教は民衆にあきらめとなぐさめを説き、現実の不幸を改革するために立ち上がるのを妨げている、という意味です。ここには、当時のヨーロッパで宗教が果たしていた歴史的な事情が反映しています。キリスト教は、国王権力と支えあう関係になって、専制支配のもとで苦悩する民衆に忍従を説いていました。マルクスはそうした宗教の役割を批判したのです。
 マルクスがアヘンという言葉を使った背景には、当時のヨーロッパでアヘンが話題となっていたという事情もあります。イギリスが植民地インドで製造したアヘンを中国(清)に密輸し、アヘン戦争が起こった時代でした。
 反動勢力は、「宗教はアヘン」というマルクスの言葉をわい曲して、科学的社会主義を攻撃しました。それが今も影響しているといえます。しかし、マルクスが宗教を侮蔑(ぶべつ)していないことは、宗教によって不幸に抗議している、と述べていることからも明らかです。
 科学的社会主義は、反宗教の立場ではなく、宗教が実際に果たした役割を分析し、宗教がになった民衆への奉仕の意義を重視して、世界観の違いをこえた宗教者との共同をはかってきました。
 日本共産党は、日本の宗教には、一部に反社会的、反民主主義的動向がみられるものの、宗教界の多くの人びとが社会進歩に積極的役割を果たしていると考えています。日本共産党の綱領は「信教の自由を擁護し、政教分離の原則の徹底をはかる」と明記し、この方針をつらぬいて、宗教者との対話と共同を発展させています。(2010・7・15)

以上の文章は日本共産党の宗教観です。本当に優しい歴史観、宗教観です。あの自民党右派の中曽根康弘さえ、共産党を倫理性の高い政党だと認めていました。
それにしてもヨーロッパ文化の先進性、なかでもマルクスの世界観の科学性先進性はすごいです。明治維新はマルクス50歳ですから、マルクスは江戸時代のひとなんです。
         渡辺靖之
2021/08/28(土) 19:16 No.7 編集 削除
求めよさらば与えられん  メール 返信
デジタル大辞泉「求めよさらば与えられん」の解説では、新約聖書「マタイ伝」から、「神に祈り求めなさい。 そうすれば神は正しい信仰を与えてくださるだろう」の意。 転じて、物事を成就するためには、与えられるのを待つのではなく、みずから進んで求める姿勢が大事だということ。
 宗教心を論じている場合に、このような理解は理解に苦しむ、企業の自己啓発ではあるまいし。このような理解がまかり通っているのは嘆かわしい。
 数日前のことであるが、夕方6時半までの午後診療を終わって、クリニックでひとりで休んでいる時のこと。定期往診している、ひとり暮らしの高齢婦人から電話が入った。7時半過ぎのことである。
 デイサービスから帰って、しばらくしてから腰が痛む。シップ薬は持っているので「誰でもいいから、誰か来てシップを張ってちょうだい」とのこと。
 蕎麦屋の出前じゃあるまいし。明日も痛みが続いていたら、電話をください、と言ってがちゃんした。
 「助けて、貴方に」と言われれば、もう少し違った対応になったかもしれない。
その患者さんからは、翌日も、翌々日にも電話はかかってこなかった。怒ったまま、当院にこなければ、顧客をひとり失ったが、ばば抜きしてもらったとも言える。
神様(困ったときの神様)ごめんなさい。
                              渡辺靖之
2021/08/28(土) 18:36 No.6 編集 削除
求めよさらば与えられん  メール
求めるとは、苦しくて苦しくて、自分の努力だけではなんともならない。死んで解決するのはやはり卑怯?そして怖い。神(仏)にすがること。それが即信仰なのだということ、それが「求めよさらば与えられん」の真髄と思う。
日本では、ただ仏にすがって、「なむあみだぶつ」と唱えれば救われる、という何の虚飾もない信仰のありかたを教えたのが、法然・親鸞であった。
 自分のことで言えば、これまでの人生で1,2回はすがりたい気持ちにはなったが、他のいろいろな助けで、信仰に頼らず、陥らずにすんでいる。渡辺靖之
2021/09/28(火) 14:48 No.1 編集 削除
隠し剣鬼の爪に惹かれる理由 メール 返信
山田洋二監督作品のあらすじは、インターネット検索していたら、あるサイトに次のようにまとめられていました。コピペしましたが、そのサイトにまた戻ることができません。申し訳ありません。
幕末の東北、海坂藩。
母の生前に奉公に来ていた百姓の娘・きえ(松たか子)と、三年振りに町で偶然再会した平侍の片桐宗蔵(永瀬正敏)。
だが、伊勢屋という大きな油問屋に嫁いで幸せに暮らしているとばかり思っていた彼女の、痩せて哀しげなその容姿に胸を痛める。
それから数ヵ月後、彼は、きえが過労で倒れ病床に臥せっていると聞くや、嫁ぎ先へ乗り込み強引に彼女を連れ帰るのだった。
その甲斐あって、やがてきえの体は順調に回復する。
宗蔵の侘しい独身生活も、明るさを取り戻した。
しかし、彼の行動は藩内で悪評を呼び、きえを実家に帰すことを余儀なくされてしまう。
そんな矢先、大事件が起こった。
海坂藩江戸屋敷で謀反を働いた罪で郷入りの刑に処されていた狭間弥市郎(小澤征悦)が牢を破り、百姓の家に人質をとって立て籠ったのだ。
弥市郎は藩内きっての剣豪。
そこで、大目付の甲田(小林稔侍)は彼と同じ剣術指南役・戸田寛斎(田中泯)の門下生だった宗蔵に討手を命じた。
果たして、宗蔵は弥市郎との戦いに挑むも、弥市郎の命を奪ったのは――鉄砲隊の放った銃弾だった。
侍らしい最期を遂げられなかった弥市郎の悔しさを嘆く宗蔵。
更に、家老の堀将監(緒形拳)が夫・弥市郎の命乞いにやって来た桂(高島礼子)の体を玩んだことを知った彼は、ふたりの無念を晴らすべく、戸田から授かった秘剣“鬼の爪”で堀の命を奪う。
その後、侍の道を捨て蝦夷へ旅立つ決意をした宗蔵。
宗蔵は、ずっと長い間胸に秘めていた熱い想いをきえに伝え、きえも宗蔵の気持ちを受け止めるのだった。

 ところでこの隠し剣の技は、山田洋二映画では次のようである。宗蔵は、平伏から立位になり、怒って詰め寄ってくる家老の堀に対応。相手の視線を上に向けさせて、隠し持っていた小柄で瞬時に前胸部、心臓を一突きにする。堀は何が起きたか分からず、5秒ほどの間合いがあって倒れる。その間に宗蔵は何事もなかったかのように立ち去る。
当時の医者の検視では傷口は分かっても、人間の仕業ではないと判断されてしまう。

 これが山田洋二監督の映画「隠し剣鬼の爪」のシーンだが、他の映画かテレビドラマで、同じような設定ではあるが、技が少し違ったのを見たことがある。廊下にかしこまって座った暗殺者(主人公)が、頭上から話しかけてくる相手の股間から心臓に向けて長い細身の剣で心臓を突くというものだった。座位からの仕掛けです。
必殺シリーズだったかもしれない。誰かご存知ないでしょうか?

理不尽なことがまかりとおり、法で裁ききれないときには、隠し剣のような手段も止むを得ないというのが、藤沢周平さんも山田洋二監督もおそらくそういう立場だと思われます。私自身ももちろんその立場です。ただ自分自身が当事者の場合には、他に手段はなく、「自爆テロ」しかないなと思っています。
  渡辺靖之
 
2021/08/21(土) 19:33 No.5 編集 削除
下京や 芭蕉の視点 メール 返信
下京や雪つむ上の夜の雨 野沢凡兆 『猿蓑』

(以下は芭蕉と凡兆の俳句についての現代俳人守谷茂泰氏のコメント・解説です。)
 雪の積もった寒い日、夜更けになって気温が上がったのか、雪を融かす雨が降り始めることがある。その音は夜の静寂をさらに侘びしくさせて、妙に人恋しい気持ちにさせるものだ。「雪つむ上の夜の雨」という描写は純粋に視覚的なものだが、単なる風景画のような美しさではなく、読み手の心にひそむ様々な感情を引き出してくれるとても魅力的な表現だ。それは客観的な描写の中に、雪が降り積み、やがてその上に雨が降り出すまでの時間の経過が巧みに織り込まれているからだろう。
 野沢凡兆の句には、現代においてもなお新鮮さを失わない映像的な魅力がある。たとえば「時雨るゝや黒木つむ屋の窓あかり」には、時雨の空と黒木が積まれた暗く寂しい色調と、その中に浮かび上がる明るく暖かい「窓あかり」との対比。「鷲の巣の樟の枯枝に日は入ぬ」には、鷲の巣と枯れ枝という小さなものから大きな夕日へとダイナミックな視点の転換がある。いずれも「雪つむ上の夜の雨」と同じようにその映像には天候や時間の推移が詠みこまれ、密度の濃い、奥行きのある描写となっている。これらの句が描いた情景は、時代を越えて今目の前にあるように生々しい。
 ところで掲句の上五の「下京や」は、凡兆の師の芭蕉の作だというのはよく知られたエピソードである。「去来抄」によると、凡兆がこの句の下七五を示して、上の句が出来ていないというと、芭蕉が「下京や」を提案した。凡兆は「あ」と言っただけで黙ってしまうと芭蕉は、「これ以上の上の句があったら、私は俳諧を辞める」とまで言ったのだという。弟子に向かって言う言葉にしてはずいぶんと挑発的だ。年長者でもあった凡兆の才能に対してこの頃の芭蕉は脅威を感じていたのかもしれない。「下京」という地名からは、白く雪の積もった家々の屋根が夜の闇にずらりと並ぶ哀感に満ちた景が浮かんできて、「雪つむ上の夜の雨」に調和している。しかし凡兆の作った景の無限の広がりに対して、下京という地名がそれを狭く限定してしまったようにも読める。納得できなかった凡兆の心境はよくわかる気がする。凡兆は「猿簑」が出版された後「下京や」に代わる上の句を改めて考えたことはなかっただろうか。凡兆の妻の羽紅も俳人で芭蕉門下だった人だ。芭蕉のもとを離れて晩年は零落したと言われる凡兆夫婦だが、それでも二人でひっそりと暮らしながら句を作り続けたことだろう。雪の積もった冬の夜には、「下京や」に代わる言葉を探してあれこれと語り合う凡兆と羽紅の姿が幻のように頭に浮かんでくることがある。評者: 守谷茂泰 平成28年11月16日(現代俳句コラム)

 以上は芭蕉と凡兆の俳句についての現代俳人守谷茂泰氏のコメント・解説です。
 私はもちろん俳句はすきですが、全くど素人です。次回私なりのコメントを書くつもりです。渡辺靖之
2021/06/27(日) 17:54 No.4 編集 削除
下京や、林田茂雄先生のぱくり メール
私が青年時代に読んだ哲学者林田茂雄先生の本に、「下京や」の芭蕉の話がありました。何十年たった今でもよく覚えています。今回「現代俳句」のコラムの記事を読んで、改めて感じたのが次ぎの感想です。ほぼ林田茂雄先生のパクリですが、私自身の言葉になっていますので、文責は私にあります。
①まず京都での句会であるから、京の地名がくるのががふつう。上京あるいは下京になるのが、まず順当といえる。
②「雪積む上の夜の雨」、ここからイメージされるのは、いろいろあろうと思われるが、江戸時代の京都の下京であれば、庶民、職人たちが住む長屋は冷え込んでおり、積もった雪の上に冷たい雨が降るのであれば寒さはいや増して、明日早朝のご飯や弁当の支度が大変、明日は仕事さえないかもしれない。どちらかと言えば、冷え込んだイメージになる。
③「下京や」から、上京・下京で京全体をイメージできる。平安時代からの日本の都ではあるが、今では政治権力は江戸にすっかり奪われている。文化的にも江戸時代文化が花開いている。「下京や」で、そうした日本全体をもイメージできるスケールの大きさが生まれている。
④芭蕉は句作のひとつの軸としたのが「不易流行」であることは有名です。積む雪に降り落ちる雨、これは日本列島悠久の自然であり、不易。それに対して下京、上京、江戸は人間の営みであり、こちらは流行である。例えば芭蕉の他の俳句であれば「荒海や 佐渡に横とう 天の川」。
荒海や天の川は不易、佐渡の金鉱山とそれをめぐる政権の栄枯盛衰が流行です。

結論:下京やの句以上の句はないと思います。  渡辺靖之

2021/07/03(土) 19:50 No.1 編集 削除
秋の風 メール
石山の石より白し秋の風
風には、音や匂いも、それに色さえも感じることがあるんだ、というだけの松尾芭蕉としては平凡な一句かな。生意気ですが、第3句は那谷の風のほうがよかったのに、とも思われます。
 うーむ・・しかし。それだと那谷寺観光への忖度の問題が出てきて世俗的すぎるかな。やっぱりリズム良く秋の風としたほうが、さわやかですね。
            渡辺靖之
2021/08/30(月) 17:18 No.2 編集 削除
祖国はありや メール 返信
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

寺山修二の有名な短歌です。僕は寺山修二全体像をよく分かっていないのですが、この短歌には特別に心が惹かれます。音読するとぞくっとします。もちろんそれは僕の生い立ちに関係があります。僕は寺山修二より8歳年下、終戦前の北朝鮮生まれ、いわゆる引揚者です。父は国家公務員の検事だったため現地ですぐに収監され、若い母親が6歳の姉の手を引いて、2歳の僕をおぶって命からがら日本に帰りました。僕は2歳になっており、聞き分けがあり、声をあげてなくことはなかったので助かったのでしょう。その後、いまだに声を出して泣くことが出来ません。母親が亡くなった日も声を出すことはありませんでした。
引揚者は日本政府、日本陸軍に見捨てられたのです。貨物列車の中で死んだ人々、野垂れ死にした人々もたくさんいたのです。その人たちのうらみつらみをいかに晴らすか、その念は心のどこかに今でも続いています。
小学校3年生のとき、父の転勤のため広島市比治山地区の小学校に転校しました。担任は菅谷先生、今でも名前を覚えています。もっと影響をうけたのはクラスのボスの男の子です。自ら元帥・大将を名乗り、転校生の僕には、しばらく2等兵で我慢してくれ、今後の相撲の強さ次第で、だんだん昇進できるぞとの訓示をたれました。子供ごころにも、ボス、リーダーとして大物だなあと感心しました。僕は前から1,2番目に小さかったのですが、相撲ではよく粘るほうだったので軍曹に昇進しました。4年生になる前に岡山に転校になり、上品そうな子ばかりだったので相撲では粘り勝ちが多く、広島の子は強いとほめられました。
 その広島比治山地区での体験ですが、学校からの帰り道、在日朝鮮人の子たちは固まって先を歩くのですが、その足元を狙って石つぶてが日本人の子達から投げられるのです。しかし体にはぶつからないように。日常茶飯事になっていて、けんかにもならず、くりかえされていました。僕は転校時の挨拶で、先生から生まれた県名を聞かれて、朝鮮と答えたため在日朝鮮人と思われて、石をなげられるのは一緒でした。心の中でこのことは決して許さないと誓ったのを覚えています。石を投げた子たちではなく、なぜか日本を許さないと思っていました。「祖国なんかない」と思ったのはこの時からです。広島にいるから、広島びいき、岡山だから岡山。函館に転校したから、なんとなく函館びいきだけど、日本なんかには世話にならないと思っていました。
大きな神社やお寺をみても有難いと感じることはなく、その都度反発ばかり感じました。時の権力者が、人民を収奪して作ったものに過ぎない、北海道神宮や明治神宮の祭神は明治天皇らしいが、そんな者は自分の先祖ではない。自分の名もなき先祖はだれか分かるはずもないが、自分がいるからには必ずいたはず。他人の先祖を有難がることはないと今でも思っています。
なので、寺山修二のマッチ擦るは心に沁みるのです。
渡辺靖之

2021/06/16(水) 19:00 No.3 編集 削除