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下京や 芭蕉の視点 メール 返信
下京や雪つむ上の夜の雨 野沢凡兆 『猿蓑』

(以下は芭蕉と凡兆の俳句についての現代俳人守谷茂泰氏のコメント・解説です。)
 雪の積もった寒い日、夜更けになって気温が上がったのか、雪を融かす雨が降り始めることがある。その音は夜の静寂をさらに侘びしくさせて、妙に人恋しい気持ちにさせるものだ。「雪つむ上の夜の雨」という描写は純粋に視覚的なものだが、単なる風景画のような美しさではなく、読み手の心にひそむ様々な感情を引き出してくれるとても魅力的な表現だ。それは客観的な描写の中に、雪が降り積み、やがてその上に雨が降り出すまでの時間の経過が巧みに織り込まれているからだろう。
 野沢凡兆の句には、現代においてもなお新鮮さを失わない映像的な魅力がある。たとえば「時雨るゝや黒木つむ屋の窓あかり」には、時雨の空と黒木が積まれた暗く寂しい色調と、その中に浮かび上がる明るく暖かい「窓あかり」との対比。「鷲の巣の樟の枯枝に日は入ぬ」には、鷲の巣と枯れ枝という小さなものから大きな夕日へとダイナミックな視点の転換がある。いずれも「雪つむ上の夜の雨」と同じようにその映像には天候や時間の推移が詠みこまれ、密度の濃い、奥行きのある描写となっている。これらの句が描いた情景は、時代を越えて今目の前にあるように生々しい。
 ところで掲句の上五の「下京や」は、凡兆の師の芭蕉の作だというのはよく知られたエピソードである。「去来抄」によると、凡兆がこの句の下七五を示して、上の句が出来ていないというと、芭蕉が「下京や」を提案した。凡兆は「あ」と言っただけで黙ってしまうと芭蕉は、「これ以上の上の句があったら、私は俳諧を辞める」とまで言ったのだという。弟子に向かって言う言葉にしてはずいぶんと挑発的だ。年長者でもあった凡兆の才能に対してこの頃の芭蕉は脅威を感じていたのかもしれない。「下京」という地名からは、白く雪の積もった家々の屋根が夜の闇にずらりと並ぶ哀感に満ちた景が浮かんできて、「雪つむ上の夜の雨」に調和している。しかし凡兆の作った景の無限の広がりに対して、下京という地名がそれを狭く限定してしまったようにも読める。納得できなかった凡兆の心境はよくわかる気がする。凡兆は「猿簑」が出版された後「下京や」に代わる上の句を改めて考えたことはなかっただろうか。凡兆の妻の羽紅も俳人で芭蕉門下だった人だ。芭蕉のもとを離れて晩年は零落したと言われる凡兆夫婦だが、それでも二人でひっそりと暮らしながら句を作り続けたことだろう。雪の積もった冬の夜には、「下京や」に代わる言葉を探してあれこれと語り合う凡兆と羽紅の姿が幻のように頭に浮かんでくることがある。評者: 守谷茂泰 平成28年11月16日(現代俳句コラム)

 以上は芭蕉と凡兆の俳句についての現代俳人守谷茂泰氏のコメント・解説です。
 私はもちろん俳句はすきですが、全くど素人です。次回私なりのコメントを書くつもりです。渡辺靖之
2021/06/27(日) 17:54 No.4 編集 削除
下京や、林田茂雄先生のぱくり メール
私が青年時代に読んだ哲学者林田茂雄先生の本に、「下京や」の芭蕉の話がありました。何十年たった今でもよく覚えています。今回「現代俳句」のコラムの記事を読んで、改めて感じたのが次ぎの感想です。ほぼ林田茂雄先生のパクリですが、私自身の言葉になっていますので、文責は私にあります。
①まず京都での句会であるから、京の地名がくるのががふつう。上京あるいは下京になるのが、まず順当といえる。
②「雪積む上の夜の雨」、ここからイメージされるのは、いろいろあろうと思われるが、江戸時代の京都の下京であれば、庶民、職人たちが住む長屋は冷え込んでおり、積もった雪の上に冷たい雨が降るのであれば寒さはいや増して、明日早朝のご飯や弁当の支度が大変、明日は仕事さえないかもしれない。どちらかと言えば、冷え込んだイメージになる。
③「下京や」から、上京・下京で京全体をイメージできる。平安時代からの日本の都ではあるが、今では政治権力は江戸にすっかり奪われている。文化的にも江戸時代文化が花開いている。「下京や」で、そうした日本全体をもイメージできるスケールの大きさが生まれている。
④芭蕉は句作のひとつの軸としたのが「不易流行」であることは有名です。積む雪に降り落ちる雨、これは日本列島悠久の自然であり、不易。それに対して下京、上京、江戸は人間の営みであり、こちらは流行である。例えば芭蕉の他の俳句であれば「荒海や 佐渡に横とう 天の川」。
荒海や天の川は不易、佐渡の金鉱山とそれをめぐる政権の栄枯盛衰が流行です。

結論:下京やの句以上の句はないと思います。  渡辺靖之

2021/07/03(土) 19:50 No.1 編集 削除
秋の風 メール
石山の石より白し秋の風
風には、音や匂いも、それに色さえも感じることがあるんだ、というだけの松尾芭蕉としては平凡な一句かな。生意気ですが、第3句は那谷の風のほうがよかったのに、とも思われます。
 うーむ・・しかし。それだと那谷寺観光への忖度の問題が出てきて世俗的すぎるかな。やっぱりリズム良く秋の風としたほうが、さわやかですね。
            渡辺靖之
2021/08/30(月) 17:18 No.2 編集 削除
夏草や メール
まず、深沢 眞二FUKASAWA Shinji先生と、先生の夏草やの句の解釈を紹介します。

日本古典文学研究者。連歌俳諧や芭蕉を主な研究対象としている。1960年、山梨県甲府市生まれ。京都大学大学院文学部博士課程単位取得退学。博士(文学)。元・和光大学表現学部教授。著書に『風雅と笑い 芭蕉叢考』(清文堂出版、2004年)、『旅する俳諧師 芭蕉叢考 二』(同、2015年)、『連句の教室 ことばを付けて遊ぶ』(平凡社、2013年)、『芭蕉のあそび』(岩波書店、2022年)など。深沢了子氏との共著に『芭蕉・蕪村 春夏秋冬を詠む 春夏編・秋冬編』(三弥井書店、2016年)、『宗因先生こんにちは:夫婦で「宗因千句」注釈(上)』(和泉書院、2019年)など。

夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡 芭蕉
(1689年作、『おくのほそ道』)
芭蕉が旧暦5月13日(現在の太陽暦では6月29日)に奥州平泉の高館(たかだち)を訪れた時に詠んだ句で、野望を抱いた武士どもが戦いに敗れ去ってその跡には夏草が茂っている、という解釈が現在一般的です。しかし、芭蕉自身はそんな意味でこの句を詠んではいないということを述べたいと思います。なぜなら、芭蕉の時代の「夢」の語は「希望、願い」といった意味では使われず、もっぱら睡眠中の現象を指していたからです。その前提に立つとどう解釈できるでしょうか。
能には、脇役の夢の中で主役が何事かを訴え、目覚めとともに主役も消え去るというストーリーが多くあります。主役はその場所で死んだ人物の亡霊で、しばしば「跡を弔ってくれ」(死んだ場所で供養をしてくれ)と訴えます。また、「草葉の陰」という語句が今も生きているように、墓には草が茂っているものでした。そうしたことを総合すると、能の趣向を踏まえ、次のように解釈することができます。
「高館にて、私はこんな体験をしました。そこを訪れた時、私はいつか眠りに落ちて夢を見ていたのです。その夢には高館で討ち死にした義経や弁慶ら兵どもが現れ、最後の戦いのありさまを語り、われらを供養してくれと訴えました。やがて夢から覚めると、彼らをまざまざと見たはずのその跡は、ただ夏草が生い茂っているばかりでした」。芭蕉は能の脇役になりきって、古戦場で亡びていった兵どもの亡霊と対話したのです。

  引用 新小岩わたなべクリニック渡辺靖之

2025/01/12(日) 16:20 No.3 編集 削除
深読みもできるが、基本は不易流行 メール
芭蕉の時代の江戸にも、時代物・歴史物のファンは多くいました。
現代では信長か秀吉、家康に好みが分けられるように、芭蕉の時代のヒーローは1位に義経、2位が義仲、最下位が頼朝だったそうで、芭蕉自身は義仲に心酔していました。
芭蕉は51歳で、大阪の門下生・後援者の立派な邸宅で亡くなりました。その時、死後の望みを聞かれて、義仲の墓所のできるだけ近くに墓を建ててもらうことを希望しました。結果、芭蕉のお墓は、滋賀県にある義仲寺境内の義仲墓所のすぐ近くにあるそうです。
さて芭蕉は、高舘城址で、義経一門、藤原三代の霊を弔って、夏草やの句を詠んだのですが、その作句の基本は、やはり不易流行だったのです。
 そうであるからこそ、義仲も含めた源平の盛衰、その後の武家政権の確立、戦国時代、織豊政権、江戸時代へと続く歴史の「流行」が走馬灯のように、読者の中にめぐりくるのです。
蛇足ながら対照の「不易」とは、毎年毎年今のあたり一面生い茂っている夏草です。城、石垣にではなく、夏草にそれをみた芭蕉のスケールの大きさがわかりますね。
2025/01/12(日) 18:08 No.4 編集 削除
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