返信フォーム

以下のフォームから返信を行ってください
祖国はありや メール 返信
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

寺山修二の有名な短歌です。僕は寺山修二全体像をよく分かっていないのですが、この短歌には特別に心が惹かれます。音読するとぞくっとします。もちろんそれは僕の生い立ちに関係があります。僕は寺山修二より8歳年下、終戦前の北朝鮮生まれ、いわゆる引揚者です。父は国家公務員の検事だったため現地ですぐに収監され、若い母親が6歳の姉の手を引いて、2歳の僕をおぶって命からがら日本に帰りました。僕は2歳になっており、聞き分けがあり、声をあげてなくことはなかったので助かったのでしょう。その後、いまだに声を出して泣くことが出来ません。母親が亡くなった日も声を出すことはありませんでした。
引揚者は日本政府、日本陸軍に見捨てられたのです。貨物列車の中で死んだ人々、野垂れ死にした人々もたくさんいたのです。その人たちのうらみつらみをいかに晴らすか、その念は心のどこかに今でも続いています。
小学校3年生のとき、父の転勤のため広島市比治山地区の小学校に転校しました。担任は菅谷先生、今でも名前を覚えています。もっと影響をうけたのはクラスのボスの男の子です。自ら元帥・大将を名乗り、転校生の僕には、しばらく2等兵で我慢してくれ、今後の相撲の強さ次第で、だんだん昇進できるぞとの訓示をたれました。子供ごころにも、ボス、リーダーとして大物だなあと感心しました。僕は前から1,2番目に小さかったのですが、相撲ではよく粘るほうだったので軍曹に昇進しました。4年生になる前に岡山に転校になり、上品そうな子ばかりだったので相撲では粘り勝ちが多く、広島の子は強いとほめられました。
 その広島比治山地区での体験ですが、学校からの帰り道、在日朝鮮人の子たちは固まって先を歩くのですが、その足元を狙って石つぶてが日本人の子達から投げられるのです。しかし体にはぶつからないように。日常茶飯事になっていて、けんかにもならず、くりかえされていました。僕は転校時の挨拶で、先生から生まれた県名を聞かれて、朝鮮と答えたため在日朝鮮人と思われて、石をなげられるのは一緒でした。心の中でこのことは決して許さないと誓ったのを覚えています。石を投げた子たちではなく、なぜか日本を許さないと思っていました。「祖国なんかない」と思ったのはこの時からです。広島にいるから、広島びいき、岡山だから岡山。函館に転校したから、なんとなく函館びいきだけど、日本なんかには世話にならないと思っていました。
大きな神社やお寺をみても有難いと感じることはなく、その都度反発ばかり感じました。時の権力者が、人民を収奪して作ったものに過ぎない、北海道神宮や明治神宮の祭神は明治天皇らしいが、そんな者は自分の先祖ではない。自分の名もなき先祖はだれか分かるはずもないが、自分がいるからには必ずいたはず。他人の先祖を有難がることはないと今でも思っています。
なので、寺山修二のマッチ擦るは心に沁みるのです。
渡辺靖之

2021/06/16(水) 19:00 No.3 編集 削除